出会いその2

『コトバ』って何なんだろう?ということを考えていく前に『コトバ』という存在をエネルギーの角度から考えられた方がおられます。その方は

小田野早秧

といわれます。1908年3月13日に麹町の富士見町にお生まれになり、2001年11月24日にお亡くなりました。93才でした。この方は『コトバ』の研究をしようと思って『コトバ』とは何か?を追求されたのではありません。最初のペ-ジに書いたような自分が持っている疑問を、追求し考えてこられたら『コトバ』の存在に突き当たったのです。しかし並み大抵の精神力ではなく、本当に『壮絶極まりない』ということばがまさに、小田野先生の一生を形容するためにあるのではないかと思われるくらい、壮絶な一生をおくられました。(菊池静流、永井迪子共著『天鏡』に詳しく記されています。)

ここで先生のことを少しお話したいと思います。
小田野先生に最初にお会いしたのは御本人ではなく、先生の書かれた「一冊の本」でした。

  美容の仕事で1978年東京に行き6年がたった1984年、美容室でお客さまから一冊の本を頂きました。本のタイトルは「生命の原理、小田野早秧」と書かれてありました。その本をめくり最初のペ-ジに次のように書かれていました。

空間に萬一「真空体」非ざれば現実の一切は成立せず。
人類に萬一「詞」非ざれば人類たる生活の一切は成立せず。
この自覚は自由確立の第一歩なり。

この文章を讀んだ時、本当そのとうりだと思いました。この方にお会いしたいなと思いました。
1984年5月3日友人と共に小田野早秧先生を訪ね話を伺いしました。

個人的なエピソ-ドなのですが、先生の自宅は田園調布に在り、田園調布といえば超高級住宅地なのでどのようなお宅かなと思っておりました。周りはすばらしい家ばかりでしたが、先生のお宅はまるでタイムスリップしたのではないかと思われるような、木造で今にも壊れそうな、ビルの谷間の小さな小屋のようなお宅でした。玄関は小さな木づくりでスリガラスが入っており、昔のガラガラと力を入れて開けるようなドアでした。挨拶をしながら入っていくと四畳半程の小さな部屋に小さな白髪まじりのおばあさんがちょこんと座っておられました。座ろうとすると

「ちょっとあなたね、ちゃんとドアを閉めないとダメじゃない。」

といきなり注意されました。玄関とお部屋の間にもう一つドアがあり、入ってくる時に少し1Cm程隙間があいていました。きちんと閉めていなかったのです。始めて会ったその日にこのように注意されるなんて、この方の注意の仕方は、まるで家族の一員にでも注意するようにおっしゃいました。凄い方だなと思いました。ふつうは見て見ぬふりをし、もっと近しい間柄になって注意するのですが、家族のように注意して下さいました。なんと深い愛を持っておられる方なのだろうと感心しながらドアを閉めに戻りました。

お話が始まるとまるでその年令とは懸け離れた「詞」がポンポン口から飛び出してくるではありませんか。きょとんとして聞いていると次から次に今まで聞いたこともないような考えがどんどん展開してきました。
間無しに詞が尽きることのない泉のように沸き出し、流れ出てくるという感じでした。今思うとその時のお話の内容はよく記憶していませんが、とにかく次から次にお話されていたことが強烈に残っております。
長く座ってお話しを聞いていたので、暫くして用を足したくなりトイレにいきました。トイレから帰ってくると先生もトイレにいかれたので、やはりあのように矢継ぎ早にお話されると、用を足さないと大変だよなと思っておりましたら、戻って座られるや否や、『あなたねトイレを使った後は次の方がさっと入れるようにスリッパをきちんとそろえておかないと困られるでしょ。』と第二段のストレ-トパンチを頂きました。いやはや間抜けな自分に呆れると同時に、このかたの生活に対するきちんとした生き方を考えさせられました。いろんなお話をお聞きしたとは思いますが、先生のパワ-に圧倒され、話の内容を考える余裕もなく、ただぽかんと聞いていたというのが正直なところです。しかし次のようにお話して頂いたことがしっかり残っていました。

コトバ(詞)で思い、コトバ(詞)で考え、

コトバ(詞)で話しているのよね、全てコトバ(詞)なのよね』と。

コトバか、今までコトバがなにかなんて考えもしませんでした。
このように1984年5月3日が終わりました。
この時以来、心の中に新たな疑問が刻み込まれました。

コトバって何だろう?

 本当のことを知りたくて多くの本を讀み、多くの方のお話をお聞きしてきましたが、本に書かれているのは書かれた方の考えです。確かにそれは「文字」を連ねることによって「文」となり「文」が連なることによって考えを表すことができます。又「話」も一音一音「コトバ」という音を連ねることによって「話」となり相手に伝わっていきます。「コトバ」、「文字」について考えたことはありませんでした。小田野先生は従来の言語学的見地からではなく、「コトバ」をエネルギ-的見地から考察されたのです。

朝起きて「トイレに行こう」と思うからトイレに行くのです。「歯を磨こう」と思うから歯を磨き、「朝食を食べよう」と思うから食事をし、「何時何分までに学校へ(会社へ)行こう」と思うから遅れないように準備して出かけ、このように「何処何処へ行こう、何々をしよう」と思うから行動を起こすのだと思います。全て「コトバで思うから」生活が営み行われているのです。日常生活の何でもなく行なっていることは、小さな時から何度も繰り返し「思い、行ってきたので」習慣づいてしまっています。このように思ったから行っているという認識は持っていませんが、コトバがあるから考えることができ、コトバがあるから喜び、コトバがあるから悲しみ、苦しみ、何もかも生活のすべては「自分の思い=コトバ」によって行っているのです。もし私達人類に「コトバ」がなかったらどうでしょうか?思い考えることができないので人としての生活ができません。私達人類と他生物との大きな違いは、考えることができる「コトバ」を持っているかどうかということなのです。

さて小田野先生がどのようにして「詞」ということにおきづきになり、どのようにして「コトバ」という謎を解かれたのか、学んでいこうと思いますが、先生はこのように常づねおっしゃいます。

『コトバのことを解こうと思ってやってきたんじゃないのよ、いろんな疑問がありいろんな啓示を頂いて、宇宙という實親の御導きによってここまで来たのよ。』と。

小田野先生が「コトバ」について学び研究されるようになったのはもともとそのように生まれついてあったことと、多くの啓示によって誘導されたとおしゃっています。又親への思いは並大抵ではありませんでした。こんなエピソードがあります。

 

『なぜなら、私は、どなただってそうですよ。よくそういうことを細々、実感で話をして いると、自分は両親のことをそんなに、好きとも恋しいとも思わないという返事が返って くる方も中にはいますけど。それでも、誰でも自分の心の奥を問い直してみたら、やっぱ 誰にとっても両親というものは絶対者ですよ。私もその一例にもれず、始めは母が好き で好きで好きで好きで、もう好きともなんとも、こんな好きな人はいなかったですね。
だ から、母がもうちょっとでも私の目から居なくなるのがいやなんです。それだから、子供のくせに、母の姿がみえない家の外に出て遊ぶのがいやだったんです。その為に、母が湯 殿に行って洗濯を始めると洗面所に付いて行ってそこで絵を書いている。母が縁側で針り物を始めると、又、縁側まで行ってそこで絵を書いている。だから、絵を書くことが、私 の一番の遊びだったんです。そのように、なぜだというと、母が好きだから。
もう一つ好きな原因になったのは、好きと言うか心配の原因になったのは、チビッ子のくせにどういうものだか、それも好きのせいだからですよね。昼でも夜でも昼寝も幼い時 はしますね。何しろ、眠ると母の夢を見ている。いつでも、母がいない夢はない。母は最初は夢の中にいるくせに、いつも居なくなっちゃうんです。さあ、困っちゃうんですね。
だから、起きている時は、母がいなくならないように側にくっついているんです。夢ではくっついていようと思っても、鳥がさらっていったり、わしはおおかみじゃと言って、大 きい神様なのか、狼なのか知りませんけど、白い着物を着て、顔は割合、小さいおじいさんが出てきて、おおかみじゃと言う。でも、人間の顔をしていたから、やっぱり大きい神 様なんでしょうね。それが、大きい白い着物でパーと母を隠してしまったら、もう出してくれないんですね。よく白椿の咲いている道に着た時、パーとは母も椿も隠しちゃったり ね、もう子供の私は泣いてもどうしょうもない。泣いて目が覚めると、とにかく、もう一つの現実があったというんで、「あー、よかった」という訳でしょ。ですから、私として は辛い夢を見ていたんです。それが、だんだん過ぎると、私も段々成長してきたんでしょうね。母の心配の夢が過ぎると、蛇の夢を見てね。どっちもその頃の夢は、夢の世界だと ゆうずうが効かないんです。外に遊びに行っておいでと母が言っても「いや」と言って家にいりゃ、母の姿が見えるのに、夢では誰かが持っていってしまうと探す手立てもないで
しょ。夢でなければ、そんなに母が急にどうにもならない程居なくなることはないですよね。だからだんだん夢が嫌いになった。夢が嫌いで、後日、非常に私が余り寝ることを好 まない人間になっていく元になる。色々、原因があるんですよね。
母が好きで好きで、私が小学にもいかない子供のころ、祖母ときしぼ神のお祭があると、よく母が「伯母のお供をしてお祭に行ってお出いで」と言うが、お供でもないですが、 こっちが世話をかけるくらいのものですけど、祖母と行くのはいやだけど、母が言うから仕方がないから、一緒に行く。すると、道祖神みたいな所で、ここには、おちょうもくを 上げるのと祖母が穴あき銭を上げて、手を合わせる。子供心ですから、ただ、真似の時代ですから、一生懸命私も手を合わせて、唱え事を知っていたんですよ。何を言うのかとい うと「お母さんが長生きしますように」と言って、おばあさんが長生きしますようにとは言わない。可笑しいですね。あれが本能ですね。誰にも頼まれたこともないし、言い聞か されたこともないのに、どこへいっても、母が長生きしますように,長生きしますようにと拝んでいた。そういう私は母っ子だったんです。
私は、8才になるまで、妹が生まれるまで、末っ子でしたから、どうしても、私の母はゆったりした暇な主婦ではない、すごい忙しい。色々な責任を背負っている立場におりま したから、決して私と遊んでくれたこともないし、悠長に、私が病気した時は看病してくれる母でした。だから、熱が出て、気分が悪いと思っても、母が側にいると嬉しかったで すね。そうでなければ、夢じゃないけど、たいがいどこかへ行って忙しい思いをしている。だから、くまなく、母の後ろをくっついて歩いて、仕方がないから、母になんかして頂 戴と言っても、一人でおしと叱られちゃいますからね。何でも自分ですることに慣れていましたし、自分を遊ばせるには紙を持っていって、母の姿がちょいと見えるところで、一 生懸命に絵を書いていた。ですから、絵は毎日、修業しているから、とても上手になった。それで、小学校に入るなり、絵の張り出しばかりしていた。人間なんて急に上手になる ことはないんですよ。やっぱり、そういう根があるんですね。本当によくも飽きずに書いていましたよ。そんな私は、やっぱり、父はその頃余り頭に入っていなかった。始終接近 してくれないから、丁度、生まれたばかりの雛っ子が、近所にいたものに、ちょこちょこくっついて歩き出すのと同じようなものですね。つくづく、私はそう思います。お母さん は、どこでも家の中で頑張っていますよね。だから、生まれて物心がつくと、一番先に母親が目に入りますでしょ。 』
最愛のお母さまを1931年(昭和6年)6月11日に亡くされました。失意のどん底でお母さまがどうなられたのか知りたくて、考えに考えたあげく次のようなことを考えになりました。

生の状態 – 死の状態 =生命

生きている状態から死んだ状態を引き算されたのす。先生特有の『リアリスト』 としての最も現実的な方法だと思います。この等式から命の実質が明らかになるのです。次の基礎講座の章で詳しくお話しします。又受けられた多くの啓示の中でその一つに先生にとっても重要な啓示があります。

それは先生のどんなことよりも大切に思われているお父様がお亡くなりになった時のことです。昭和23年12月22日からお父様の看病、手当てを21日間された時のお話ですが、この間一睡もせず父が体の痛いといわれるところを、御自分の手で摩ったり、撫でたりされていた。手を当てると父の体の痛みが不思議となくなった。だから痛いといわれるところをずーっとあちらこちら寝ずに「手当て」をした。

そして昭和24年1月11日のことです。お父様の寝床のそばに、亡くなった母の小さな写真がおいてあった。母は昭和6年6月11日に亡くなられていたので、1月11日の朝お母様の写真に向かって「お母さま、今日お父様をお迎えにこられたら嫌ですよ」とい う気持ちで写真を見ていた。父が今日は気分が良いからパリッとあがった御飯と煮奴を作ってくれといわれた。隠し味に鳥とかいろんな物を入れないようにと言うのですが、少し栄養をと思われ、隠し味程度に栄養を入れた煮奴を作られた。食事をされた後疲れたといって横になられたそうです。そして父がこれから2時間後に逝くからなといい、そして誰と誰に連絡しなさいとか、妹さんには脈を取らせ、先生は右のほうに座らせて瞳孔を調べさせ、一つ一つ指図して20時48分頃息を引き取られた。お父様がいわれたように2時間後に亡くなられ、三途の川のむこうで「どうだ私がいったとおりだろう」と言っておられるようだったとおっしゃってました。
昭和24年1月13日の12時過ぎ、先生はお一人だけでお父様との告別をされた。お父様のなきがらの前でふと思い出されたことが、お役所の国勢調査に父を扶養していると書かれたことだった。父がいてくれたからこそ自分はいきてこられたのに、扶養と書いたことを大変後悔された。母なき後18年間父の世話をすることに喜びを感じ、そもそもこの親子という関係はどうゆうことなのだろうと思われた。その時「太陽と水の微粒子の関係」のことを考えられた。

自分は水の微粒子で父は太陽光線。太陽の熱にあたためられた水蒸気が上昇していって、上空で冷え雨となって落ちてくる。その循環作用がおこるのは水分子の力で起こしていることではなく、太陽の熱線の温度が起こしていることなのです。そのことを考えたら「扶養」なんて書いたことが悔やまれた。『父』あればこそ生まれ、『父』あればこそ人間のように生きてこられた、すべての原因は『父』にあったんだときずかれた。親子の絆の本質を知らないでなんと偉そうなことを行っていたのだろうと思うと、ばかでばかで自分の大ばかさかげんに、この40年間というものが大きな真っ暗な穴に落ちたような、まったくでたらめな人生だったと思われた。お詫びをしようにも、もう父は再び自分を見てくれないし、自分の叫びを聞いてもくれない。大変な心得違いの大バカものだと思い、この償いはどうやって返したら良いのだろうと、「そうだ絶対の闇を持って償う」のがせめてもの償いだと思ったその瞬間に、

黄金の光りの霧

の中に浮かんでいた。なんとも言えない光の光明の中に浮いていて、周りじゅう黄金の光でそれ以外何も見えなかった。重力がなくなったような状態で、体がないような感じでフワッーと浮いていて、今の今まで悔し涙が滝のように流れていたのが、そのままうれし涙に変わった。嬉しくて嬉しくて顔がにやついて仕方がないのが悔しかった。

 

『父』との告別の日、人生のクライマックスを迎えた日ににやにやうれしがっている自分が悔しくて仕方がなかった。そう思いながらもどうしてこういうことになったのか、その経路がまったく分からなかった。頭がおかしくなったのではないか?分裂したのではないかと本気で思った。いろいろ考えているのに嬉しいし楽しいし、何にくらべたらこの嬉しさと似た感じがあったのか考えてみても、今まで生きてきて経験したどんなことより嬉しかった。この歓喜、この楽しさ、この喜びはなんといっても何より素晴らしいなと思った。そして浮いているような感覚があるのでそっと手で畳を触ってみるとちゃんとそこには畳はあり、畳をちょっとむしって目のすぐそばまで持ってきて畳の屑だと確かめてみたり、手をふってみたり、顔をつねってみたり、嗅いでみたり、舌を出して味わってみたり、とにかくできるだけいろんなことを試してみた。いろんなことを確かめている間に4~5時間が過ぎ、夜が開けると御葬式を出さなくちゃいけないのにこんなに嬉しくてどうしようと思っていると、部屋のコーナーのところがうっすら白んできた。無重力だったのがしだいにズシッ、ズシリと重くなってきた。看病で35~6Kgになっていたのだが、まるで関取の小錦のような何百Kgもあるような重さを感じた。それこそ凄い重さだった。それにしても今の凄い光明はいったいなんだったのだろうと、階段を降りていく途中で、40年間知らなかったリアルな光があったのだ、そうだ『第二のリアル』だと思いながら下に降りていった。

先生からお聞きした内容をできるだけ忠実に書いたつもりですが、小田野先生の貴重な体験によって影を為さない光『絶対光』の存在を体験され、その絶対光の正体をつきとめるべく、様々な啓示によって誘導され、それから悪戦苦闘された結果、『絶対光』の実体が

光透波コトハ

という光が透明な最高速度で回転している波(バイブレイション)であるということを確信され、さらに大変なことが明らかになったそうです。

これから小田野先生の『光透波』に関する研究の「光透波エネルギ-論」について学んで参りましょう。